やさしいジェンダー史入門

セクシュアリティのジェンダー史:近代における「ホモセクシュアル」概念の誕生とその影響

Tags: ジェンダー史, セクシュアリティ, ホモセクシュアル, ミシェル・フーコー, 近代史

はじめに:ジェンダー史とセクシュアリティの交差点

私たちは今日、「同性愛者」や「異性愛者」といった言葉を日常的に使っています。これらは個人のセクシュアリティ、すなわち性的指向やアイデンティティを指し示す概念として広く認識されています。しかし、これらの概念は歴史を通じて常に同じ意味を持ち、同じ形で存在してきたわけではありません。特に「ホモセクシュアル(同性愛者)」というカテゴリーは、近代になって初めて形作られたものであり、その誕生はジェンダー規範や社会のあり方に深く関わっています。

この「やさしいジェンダー史入門」では、近代における「ホモセクシュアル」概念がどのようにして生まれたのか、そしてそれが人々のセクシュアリティの認識やジェンダー規範にどのような影響を与えたのかを、歴史的な視点から考察します。特に、20世紀を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーの議論を中心に据え、学術的な知見に基づいた解説を試みます。

近代以前の「同性愛」:行為とアイデンティティの区別

近代以前の社会では、同性間の性行為は存在していましたが、それを「ホモセクシュアルな人間」という個人の本質やアイデンティティと結びつける考え方は一般的ではありませんでした。古代ギリシャ社会を例に挙げると、成人男性が少年と関係を持つことは、必ずしもその人物が「同性愛者」であるというラベルを貼られることを意味しませんでした。むしろ、それは社会的な地位や教育の一環、あるいは特定の状況下での行為として認識されていました。

ここで重要なのは、「同性間の性行為」と「ホモセクシュアルという個人のアイデンティティ」が区別されていたという点です。つまり、行為は特定の状況や欲望の現れとして見なされ、その行為を行ったからといって、その人物の存在全体が「同性愛者」として定義されることはなかったのです。これは、ミシェル・フーコーがその著書『性の歴史』で指摘した重要な視点の一つです。フーコーによれば、近代以前は「ソドミー(男色)の行為者」はいたが、「ソドミーなる存在」はいなかった、とされます。

19世紀後半:「ホモセクシュアル」というカテゴリーの誕生

「ホモセクシュアル」という言葉が初めて登場したのは、19世紀後半のドイツの性科学者カール・マリア・ベートケによる造語とされています。しかし、この言葉が広く知られるようになり、一般的な概念として定着していく背景には、当時の社会状況と学術的な言説の発展がありました。

19世紀後半、ヨーロッパ社会では人口の増加、都市化の進展、そして科学・医学の発展が著しく、人々は社会のあらゆる側面を分類し、理解しようと努めました。特に、精神医学や性科学の分野では、これまで曖昧だった人間の性行動や欲望を、科学的な基準に基づいて分類し、診断しようとする動きが強まります。

この時期に、「ホモセクシュアル」は単なる同性間の性行為を指す言葉ではなく、「生まれつき、あるいは精神的な異常によって同性に対して性的な魅力を感じる人間」という、特定のタイプの人格や存在を示す医学的カテゴリーとして位置づけられていきます。これは、個人のアイデンティティ、そして身体そのものに結びつく概念として、人々の意識の中に深く根ざしていくことになります。フーコーは、この「ホモセクシュアル」概念の誕生を、国家、医療、法律といった権力が「性」を管理・規律化していく過程の一環と捉えました。

「ホモセクシュアル」概念が社会に与えた影響

「ホモセクシュアル」という概念が誕生し、確立されたことは、社会全体に多大な影響を与えました。

1. 新たなアイデンティティとスティグマの形成

「ホモセクシュアル」というカテゴリーが生まれることで、同性愛的な欲望を持つ人々は、初めて自分たちが特定の「タイプ」に属しているという認識を持つようになりました。これは、自己理解を深める機会を与えた一方で、社会から「異常」と見なされ、差別や迫害の対象となるスティグマ(負の烙印)を背負うことにも繋がりました。医学的な分類は、時に病気や犯罪と結びつけられ、同性愛者を社会から排除する論拠として利用されることもありました。

2. ジェンダー規範との関連性

「ホモセクシュアル」概念の誕生は、当時の厳格なジェンダー規範と深く結びついていました。特に、男性の同性愛者は、当時の「男らしさ」の規範(例:強さ、家族を養う責任、女性への異性愛など)から逸脱した存在として見なされがちでした。また、女性の同性愛(レズビアン)については、男性のそれほど社会的な関心を集めず、存在そのものが「見えない」ものとされる傾向がありました。これは、当時の女性が性的な主体として認識されにくかったことや、男性社会における性の支配構造が影響しています。

3. 法律や社会制度への影響

「ホモセクシュアル」が医学的・法的なカテゴリーとして確立されることで、多くの国で同性愛を犯罪とする法律が強化されたり、あるいは新たな法律が制定されたりしました。例えば、イギリスでは19世紀後半に「重大な猥褻行為」を処罰する法律が導入され、多くの男性が投獄されました。これは、現代のLGBTQ+の人権運動の歴史を理解する上で非常に重要な背景となります。

現代への示唆:歴史的構築物としてのセクシュアリティ

「ホモセクシュアル」という概念が歴史的に、特に近代において構築されたものであるという認識は、現代社会で私たちがセクシュアリティをどのように捉えるべきかについて、重要な示唆を与えてくれます。

多様なセクシュアリティの理解

もし「ホモセクシュアル」が歴史的に作られた概念であるならば、セクシュアリティのあり方は一つではなく、時代や文化によって多様であるという可能性を示唆します。これは、現代におけるLGBTQ+(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアなど)といった多様な性のあり方を理解し、尊重するための出発点となります。

規範の相対化と批判的思考

私たちは無意識のうちに、社会で当然とされているジェンダーやセクシュアリティの規範を受け入れがちです。しかし、これらの規範が歴史的にどのように形成されてきたのかを学ぶことで、私たちはそれらを相対化し、批判的に捉えることができるようになります。何が「正常」とされ、何が「異常」とされてきたのか、その線引きの背後にはどのような権力関係や社会的な思惑があったのかを問い直すことが重要です。

まとめ

近代における「ホモセクシュアル」概念の誕生は、単なる言葉の登場以上の意味を持ちました。それは、人々のアイデンティティ、社会的な関係性、法律、そしてジェンダー規範そのものを深く規定し、今日の私たちのセクシュアリティの理解にも大きな影響を与え続けています。

ジェンダー史の視点からセクシュアリティの歴史を学ぶことは、私たちが生きる社会がどのように形作られてきたのかを理解し、より包摂的で公正な社会を築くための重要な一歩となるでしょう。セクシュアリティが単なる個人的な問題ではなく、社会や文化によって構築されるものであるという認識は、多様性を尊重する現代社会において、より一層その価値を高めていると言えるでしょう。