やさしいジェンダー史入門

男性性のジェンダー史:揺れ動く規範と役割の変遷を読み解く

Tags: 男性性, ジェンダー史, 歴史学, 社会構成主義, 近代, 役割変遷

はじめに:男性性は「自然」なものか?

私たちが日常で「男らしさ」や「女性らしさ」といった言葉を使うとき、それはしばしば普遍的で自然なもの、あるいは生物学的な性別と結びついたものとして捉えられがちです。しかし、ジェンダー史研究の視点から見ると、これらの概念は決して普遍的なものではなく、特定の時代や社会の文化、経済、政治的文脈の中で歴史的に構築されてきたことが明らかになります。

特に「男性性」(masculinity)は、これまでジェンダー研究において、女性の経験や抑圧に焦点が当てられることが多かった中で、近年その歴史的変遷と多様性が深く探求されるようになりました。本稿では、ジェンダー史というレンズを通して、男性性がどのように定義され、期待され、あるいは変容してきたのかを探ります。

前近代社会における多様な男性像

前近代の社会では、「男性性」という統一された概念よりも、階級、職業、宗教、民族といった要素に深く根差した、多様な男性像が存在していました。

古典古代と中世ヨーロッパの男性性

アジアにおける男性性の一例:日本の武士道

日本の武士階級における「武士道」は、特定の時代における男性性の規範をよく示しています。勇気、忠誠心、名誉を重んじる精神はもとより、死生観、倫理観といった要素が複合的に絡み合い、理想的な男性像を形成しました。一方で、農民や商人といった異なる階層の男性には、家族の維持や共同体への貢献が期待され、それぞれの生活に即した男性性が存在しました。

このように、前近代においては、社会構造や文化、地域によって「男らしさ」が多岐にわたる形で定義されていたことがわかります。

近代社会における男性性の確立と変容

産業革命以降の近代社会は、男性性のあり方に大きな転換をもたらしました。工場での労働、公私の分離、国民国家の形成といった変化が、新たな男性像を形作っていきます。

産業革命と「働く男性」の誕生

産業革命は、男性を家庭の外にある公共の領域、すなわち工場やオフィスへと送り出しました。ここで、賃金労働者としての能力、競争心、合理性などが新しい男性性の理想として台頭しました。「男は稼ぎ、女は家を守る」という役割分担は、近代社会の産業構造と密接に結びついて形成されたものです。

ブルジョワ男性性と「家長」の理想

中産階級(ブルジョワジー)においては、経済的な成功だけでなく、理性、自制心、そして「家長」としての責任感が重視されました。家庭は男性が外の激しい競争から逃れ、安らぎを得る場所と位置づけられ、家長は家族を統率し、保護する存在として描かれました。この理想は、後の社会にも強い影響を与えることになります。

戦争とナショナリズムの中の男性性

20世紀に入ると、二度の世界大戦が男性性を深く規定しました。国家のために戦う兵士としての勇敢さ、犠牲的精神が至上の「男らしさ」とされ、ナショナリズムの強化に利用されました。戦場で負傷したり、精神的なトラウマを抱えたりした男性が、従来の「強い男性」像とのギャップに苦しむという側面も、この時代の重要な課題でした。

この時代には、均一化された「理想の男性像」が社会全体に強く押し付けられましたが、その裏側には、多様な男性の経験や感情が抑圧されるという現実がありました。

現代社会における男性性の多様化と課題

20世紀後半から現代にかけて、ジェンダー平等運動の進展や社会構造の変化は、男性性のあり方を再び大きく揺り動かしています。

ジェンダー平等の進展と男性性の再考

女性の社会進出、育児・介護への男性の参加といった変化は、従来の「男は仕事、女は家庭」という固定的な役割分担を見直し、男性もまた多様な役割を担う可能性を示しました。「イクメン」や「ケアする男性」といった言葉に代表されるように、共感力や感受性といった従来の男性性では重視されなかった特性が肯定的に評価されるようになっています。

「男らしさの危機」言説と社会問題

一方で、従来の男性像からの逸脱や、経済的・社会的な地位の変化は、「男らしさの危機」という言説を生み出すこともあります。経済格差の拡大、非正規雇用の増加などは、男性が期待される役割を果たせないと感じさせ、アイデンティティの危機や孤立感につながることも指摘されています。これは、メンタルヘルス問題や特定の社会問題とも関連していると考えられています。

多様な男性性の表象

現代社会では、メディアやポップカルチャーを通じて、非常に多様な男性像が提示されています。従来の筋肉質で力強いヒーロー像だけでなく、知的な男性、繊細な男性、そして性自認や性的指向の多様性を持つ男性など、一元的な「男らしさ」に収まらない多様な男性性が可視化されています。これは、男性自身が自身のアイデンティティを探求し、表現する自由度が高まっていることを示唆しています。

まとめ:歴史的に構築される男性性とその意義

ジェンダー史の視点から男性性の変遷を見てきた本稿で明らかになったのは、「男性性」が単一で普遍的なものではなく、常に社会・文化・歴史的文脈の中で構築され、再構築されてきたということです。前近代の多様性、近代における均一化された理想の形成、そして現代における多様化と再定義の試み、これら全てが、男性性がいかに流動的であるかを物語っています。

この理解は、現代社会が抱えるジェンダーに関する課題を考える上で非常に重要です。固定的な「男らしさ」という規範が、ときに男性自身の生きづらさや他者への差別意識を生み出す要因となることがあるためです。男性性もまたジェンダーの一側面として捉え、その多様性を認め、一人ひとりが自分らしく生きられる社会を目指すことは、ジェンダー平等を追求する上で不可欠な視点であると言えるでしょう。